湯浅。 男は、自分の名前をそう名乗った。活舌もはっきりしているので、聞き間違えはしない。もちろん、斎藤から湯浅という名前は聞いていた。ただ、その名前を本人の口から直接耳にした時、左の目尻に痺れが生じた。記憶の一部が欠落したような錯覚。もしかしたら、蘇ったのかもしれない。どちらにしろ、脳が一瞬の軽い混乱を招いたのは事実だった。低音が響く湯浅の野太い声は、鼓膜を充分に震わせ脳へとへばりつく。お経か呪詛を唱えるには、うってつけのトーンだと思う。説得力があるとも言えるし、従わざるおえない状況に陥る感覚も沸き起こる。この声で何百人もの男を従え、組織というピラミッドの頂点に君臨しているのであろう。 ビールが運ばれると、湯浅は乾杯の代わりに手元のお茶を啜った。私は、記憶が混乱するような無茶な飲み方だけは避けた。喉にグイグイと押し流すのではなく、舌で味わいながらゆっくりと口にする。
「その飲み方はビールには似合わない。今の君は、まるでワインでも堪能するかのようだ。いつもそうなのかね」
「いえ、たまたまです。話しを聞く前に酔ってしまったら、湯浅さんにも斎藤にも申し訳ないと思ったものですから」
私の言い訳めいた言葉に、湯浅の口元は若干緩んだ。気になるのは、湯浅の瞳孔の色と視線の動きだ。私の細部に至るまでの動きを逐一捕らえるその光からは、奇妙なニュアンスを抱かされる。

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