
予告編
私の家系は代々、医療・教職関係に携わる者が多い。最近はその血統の良さが滲み始めたのか、仲間内ではブルジョワと呼ばれるようになった。
しかしこれは単に育ちが良いという意味の渾名であって、資本家階級・生産手段を持つ人・金持ち、の意味ではない。好き勝手に生き、中途半端なドロップアウトを繰り返してきた私に、ブルジョワは遙か彼方の存在である。ホームパーティーで鍋物を囲んだ際に、灰汁を取るか取らないか、幼稚園児のような言い争いが持ち上がった。私は"取る"と豪語したが、一対少数・論争に呆れた者多数、で簡単に敗北を期してしまった。それが渾名の発端だ。親族の間では、三年ならぬ三十四年寝太郎と渾名されている。年数は、毎夏ごとに増えていく。友人の嫁さんや親御さん達は更にシンプル。普段から名前で呼びあうものだから、私の名字を憶えていない。友人の自宅へ電話をすると"どちらの町田さんですか?"と聞き返される始末。町田は地元である町田市の町田、京介が名字、そう認識しているらしい。携帯電話が普及した現在では友人の親御さんと線で話す機会もめっきり減ったが、十年程前までは茶飯事だった。まあ、渾名なんざは幾つあっても迷惑にはならないので、ユーモラスな発想の友人達と親族に感謝。
さて、その友人達よりも奇抜な発想の持ち主が私だ。私にとって普通の出来事や考えが、友人達の目には異様に映るケースがあるらしい。その度に常識・非常識についての言い争いがまた起こる。私があまりにも自我を主張するものだから、回りは渋々折れるのが常だ。止めの一言は"普通の感覚では文章など作れない"と豪語する。もちろん、私の文章を読んだ人達がどのような批評を抱いているのかなどは知る由もない。腹の底から湧き上がる奇妙な自信と情熱が、"目指せ小説家への道"の原動力となっている。
こんな調子だから、絶えず勘違いを繰り返していた二十代だった。"明日にでも映画俳優になれる"などという戯言が未だに脳の片隅にこびりついて離れない。朱夏の真只中を過ごしている現在、その勘違いが原因で巻き起こった青春時代の数々を振り返ってみたい。
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